自分の中の認知不協和(≒認知の歪み?)と、すとらぐる〜っ

struggleって単語、良くないですか?

(自分の内面と格闘している感じがして、好きな英単語です)

 

「常識とは18歳までに身につけた先入観のコレクションである。」とアインシュタインは言った。

じゃあ、どこまで人は常識を疑えるのか?自分と戦って、適宜納得するように修正していけるのか?みたいなことを、仕事中にずっと考えていた。

https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/17_einstein/motto_einstein.html (名言の出所を貼るにしても、信憑性が高ければ高いほど良い)

 

例えば、私は夜職(やそれに類すること)をやってきた人に対して、良い感情を抱きにくい。なぜだろうか?

 

・汚い仕事(これは思っていない-はず)

暴力団との関係がある場合がある

→全てでないが、関係ができやすいことはわかる

・脱税している率が高い

→なんかそういうデータがあればいいけど、これも偏見?ちゃんとやってる人はやってる

・よくわからないものに対する恐怖?

→夜職と言っても、例えばラブホの受付とか、キャバクラのボーイとか、バーテン?とかどうなるのよ、という話。

・真っ当な人がいない

→自分がマトモだと言えるのか?何と比べて?

(※ここで認知の不協和がある気がする)

・22時以降に出歩くことがほぼない

→自分がそういう生活をしてきただけ。

(※ここでも何か感じる気がする)

 

みたいな。多分考えなくていいようなことを、真面目に考えていた。

多分夜職をやっている人のうち何人かは、昼間に働いているやつにも真っ当なやつはいないと思っているかもしれない。朝7〜18時くらいまでの間に出歩くことにだけ抵抗のある人がいるかもしれない。

何もかもを疑っていたらキリがないけれど、色んな考えがあって、自分にも触れたことのない世界に対するコンプレックスがあって、かと言って触れる勇気も無くて、そういうところが認知の不協和(謎の嫌悪感?)を招いている気がする。

多分この不協和を1人で煮詰めて煮詰めてできあがった硫酸を、人の顔面に浴びせるようになってはいけないのだ。なので、書き出していることで自分を少し助けられたかもしれない。

 

私は自分の嫌悪感も、虐げられている人も、虐げている人も、みんな出来るだけ平等に愛していきたい。そのためには自分も他人も感情も、存在する構造をこそ、分解して考えることだ(後輩に博愛主義でキライって言われたことを思い出した)。

 

 

仕事においては常識を疑わない力の方が重視されているけど、日常生活とか人との交わり等ではなるだけ先入観を持たずに生きていきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

というお話。むにゃむにゃ。